梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その57|絹の通った道

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

絹の通った道

生糸が江戸・横浜に届くルート

生糸はどんな道を通って江戸・横浜に運ばれたのだろうか。

①東北地方(出羽や陸奥・南部・会津など)からの輸送ルート
江戸への参勤交代は、基本的に奥州街道を使うルートだが、鬼怒川(阿久津河岸や板戸河岸:栃木県)で舟に積んで久保田河岸まで運び、境河岸まで陸送して、利根川-江戸川と経て江戸湾に出て、日本橋界隈の問屋へというルートも、多かった。江戸時代、倉賀野(現高崎市)は上信越からの物資輸道の一大拠点であった。

②上州・北信州・武蔵を中心とした北関東・北信地方からの輸送ルート
基本的に中山道に沿ったルートだが、荷駄で運ぶより水運が利用された。利根川支流の烏川の倉賀野河岸や平塚河岸で舟に積み、利根川-江戸川と経由して日本橋まで。このルートを元東大教授で横浜にある開港資料館館長を務めた高村直助は「水上のシルクロード」と名付けている。また、高崎-本庄-熊谷-桶川-蕨-板橋というルートも用いられており、明治5年には陸運会社が設置されて、人馬でも生糸を運んだ。

③飛騨・美濃・南信濃・甲斐地方からのルート
飛騨・美濃からは名古屋に出て舟運も利用されたが、一般的には、甲州街道に沿って松本や塩尻、あるいは木曽から岡谷-甲府を経由して八王子-江戸へ、あるいは、八王子往還を経て横浜に抜けるというルートが利用されている。

東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用された。元東大教授で横浜開港資料館館長を務めた高村直助はこの水運を利用した生糸輸送のルートを「水上のシルクロード」と呼んでいる。

ルートの最終区間、東京-横浜は、1870年(明治3年)に蒸気船の弘明丸が就航しており、1872年(明治5年)には蒸気機関車が通っている。横浜での生糸取引価格の変動をにらみながら、こうしたものも利用されている。

~Page57~

IMG_9350


梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
地球の歩き方「Look Back Japan –ものづくり強国日本の原点を見に行く」連載中!