梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その68|生糸輸出を支えた鑓水商人と八王子往還

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

生糸輸出を支えた鑓水商人と八王子往還

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日本版のシルクロード――生糸の輸出をめざして商人たちが通った八王子-横浜を結ぶ「絹の道」。

その道が歴史の中で輝いたのは、幕末から明治にかけてのわずか数十年間。そこで活躍したのが「鑓水商人」である。八王子近く、多摩丘陵にある小さな村に過ぎない鑓水地区の商人が、石垣大尽、異人館と称されるほどの繁栄を見せたその理由は?

外国商人も足しげく通ったという鑓水地区の「絹の道」を訪ねる。

横浜の開港で生糸輸出が一気に沸騰するが、そんな中で活躍したのが「鑓水商人」である。八王子の南、多摩丘陵に埋もれるような小村「鑓水」出身の生糸商人たちだ。

八王子はもともと、信州や甲州と江戸を結ぶ、重要な物資の中継点であった。信州・甲州の商人たちは産地で仕入れた生糸を八王子に持ち込んで売り払い、交換に江戸から届いた物資を購って持ち帰る。八王子は、地方の物資と江戸の物資が集まり交換する交易地になっていたのである。

鑓水の商人たちは、当初は、八王子の市で生糸を買い付けて江戸などに運んでいたが、そのうち生糸を求めて産地へ出向き、買い付けるようになる。こうして、鑓水商人は次第に力をつけていき、幕末から明治初期にかけては、生糸売買で成功した屋敷が小さな集落に溢れていて、「江戸鑓水」として知られるほど繁栄していたという。

天保14年(1843年)の幕府の調査では、八王子周辺にある34の農村に47人の生糸商人がいたが、そのうち鑓水村の出身者が18名に達していたという。

八王子から南に数キロ、わずか百戸に満たない集落の鑓水から、なぜそんなにたくさんの商人が輩出したのか、そして、なぜ消えたのか、その真相はいまだに謎だ。写真は現在の鑓水風景。静かな村で、かつて鑓水商人が活躍した面影はあまり感じられない。

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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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