梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その74|環境の変化に取り残された鑓水商人

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

環境の変化に取り残された鑓水商人

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さすがの隆盛を誇った鑓水商人も、明治時代の後半になると生糸取引の舞台から消え、歴史の表舞台からフェードアウトしてゆく。鑓水商人が外国商人を相手に直接生糸取引を行うわけではなく、彼等の相手は、異国商人と渡り合う横浜商人である。

さしもの鑓水商人も、異国商人と交渉をこなす横浜商人との交渉では常に後塵を拝し、取引が進むにつれて次第に劣勢になってゆく。自ら養蚕事業へ乗り出して産業資本家への変身を図ったりするが、さらに大きな環境の変化が鑓水商人に襲いかかる。

開港のころは、荷駄で輸送した。それが明治22(1889)年、新宿-立川間27.2kmに甲武鉄道が開通し、半年後には八王子まで9.7kmに鉄道が伸びる。

1日がかりで運んだ距離が、わずか1時間で行けるようになってしまい、さらに、明治36(1903)年には八王子-甲府間が、41年(1908)には八王子-東神奈川の42.49kmが開通し、八王子を素通りして横浜に生糸が運ばれるようになる。絹の道の先導役でもあった鑓水商人の出番がなくなってしまったのである。

洋の東西を結んだシルクロードが、鉄道・飛行機の発達によって命脈が絶たれたように、鑓水商人によって開拓された絹の道も、鉄道によってその役割を終えることになった。

絹の道、日本版シルクロードが、歴史上輝いたのは、幕末から明治中頃にかけてのわずか数十年間のことだった。

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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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