梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その59|郵便事業を促した生糸商人の往来

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

郵便事業を促した生糸商人の往来

CIMG1428-八王子道道標

多摩、横浜の丘陵地帯を通るこのルートは起伏の激しい難路とされていたが、それでも甲州街道沿いの村から横浜に生糸を運ぶにはもっとも早いルートとして利用され、上州を始め、信州、甲州の商人たちは、全国から生糸を購入しては横浜に運んだ。

どのくらいこの道を通って生糸が運ばれたのかを示す一つの例として、郵便制度の開通を見ることが出来る(牧野正久「日本シルク・ロードの究明」「郵和}no.72)。

当時、政府は、それまでの駅伝馬制度に代えて、近代郵便制度の導入を進めていた。そして、明治5年7月、政府は東京-横浜間の郵便物受付を始めるとして、次のような太政官布告を出している。「東京を除くの外、横浜より各地への仕立便緩急により賃銀高下有るべく候え共、先規の基き一里六〇〇文の定額を以て請取り、夜行は倍増其余時宜に寄るべきこと。」

つまり、東京-横浜間だけでなく、いくつかの町への郵便と現金送金も受け付けるとして、各地別仕立賃銀表が附記されている。

代表的な地として、五里武州長津田、六里同原町田、七里半相州横須賀、九里同浦賀、十二里武州八王子、二十里同川越、三十六里上州高崎、三十六里八丁同富岡、三十三里同桐生、五十七里信州上田……の十地名が、距離とともにあげられているのである。横浜-長津田-原町田-八王子……はまさに、絹の道であり、川越-高崎-富岡……はその延長である。

他の先駆けた、現金送金を伴ったこの郵便制度の導入は、横浜に生糸を売りに来た商人への便宜を優先した施策である。八王子-横浜を結ぶ絹の道が、いかに生糸商人にとってなくてはならないルートだったということができる。

鑓水から大栗川に下りてくると、御殿橋があり、そのたもとに、古い道標の様子が掲げられている。

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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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