梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その76|養蚕農家の様子を残す――子だね石伝説と長屋門公園

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

養蚕農家の様子を残す――子だね石伝説と長屋門公園

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このルートのところどころに「こだね(蚕種)石」と呼ばれる石がある。また、リニア新幹線の駅候補地として話題になっているJR横浜線橋本駅近くには、蚕種石と名付けられた地区もある。

八王子から御殿峠を南下して相原坂下を東に入ったあたり、南から来れば町田街道の相原三叉路を北に入ったあたりの一角が、蚕種石と呼ばれる地域だ。今では使われていないが、しばらく前ならば、さしずめ「相原町字蚕種石」とでも呼ばれたのだろう。

いまでも「相原蚕種石児童公園」などの名に使われている。

この住宅街にある民家の一角に、120cm×80cmほどの俵型の「蚕種石」が祀られている。

こだねいしの呼び名は、「天種子命(あめのたねこのみこと)」からつけられたもので、石は古くから養蚕繁栄の象徴のように信仰されてきたという。

さらに、町田街道を東に進み、京王相模原線の下をくぐって北に曲がると多摩境駅の裏手に札次神社がある。鳥居を抜けると、すぐ右手の一角に蚕種石と名付けられた石が祀られている。神社の案内によれば「子孫繁栄」への信仰が書かれている。

どちらの石も、養蚕との関連はないようだ。カイコは、小さく生んで大きく育つ(孵化した稚蚕は2~3ミリだが、成虫になると、体重は1万倍になる)ことから安産と子育ての無事を願う願望をこれらの石に込めて信仰されたようだ。

この地域で行われていた養蚕の姿を伝えるのが、横浜市瀬谷区の長屋門公園にある明治20年(1887年)に建てられた旧大岡家の長屋門だ。住居用の部屋が付いた門で、2階などで養蚕が行なわれていた。

明治の中頃には周辺で養蚕が多く営まれていたようだ。

繭は周辺の養蚕農家から購入し、生糸取引の盛衰にもまれながら昭和初期まで続けられていた。

建物は、屋根に越屋根が付けられており、上州の高山社などで開発され広められた養蚕ノウハウが取り入れられているのが分かる。

どっしり構えた門の右手の住居は後に隠居部屋として使われた。奥には土間に続いて穀倉として使用されていた土蔵がある。

母屋は、横浜市泉区和泉町にあった安西家の主屋を移築したもの。泉区には、たくさんの製糸工場があり、天王森泉公園の和泉館は、明治に創業された製糸工場の本館である。

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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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