梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その69|鑓水商人--臨機応変で機を見るに敏

これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。

鑓水商人--臨機応変で機を見るに敏

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生糸の売買は投機である。繊細なカイコから取れる繭の量は環境に影響され、取引価格は需要の変化に大きく影響される。

いかに、機を見て売買するかが商人としての腕の見せ所である。そのため、市場の変化にも敏感である。幕府が欧米諸国と結んだ通商条約の写しなどが、当時の多摩地区の家々から発見されているのも不思議ではない。

鑓水商人たちが、横浜の開港とともに沸騰した生糸ブームを敏感に察知し、江戸や京に運んでいた生糸を横浜に運ぶようにしたのは、自然の成り行きだった。

幕末から明治にかけて活躍した商人としてあげられるのは、大塚五郎吉、八木下要右衛門、大塚徳左衛門らである。リーダー格は名主の家柄だった大塚五郎吉。彼は、当初は、八王子や甲州産の生糸を購入し江戸に販売していた。

そのうち、売買だけでは限界があると考え、繭を買ってきて農家に支給して糸を取らせ、それを引き取って八王子の市で販売するようになる。そして、横浜が開港すると、今度は八王子で生糸を買い付けて、横浜に運んで販売する。機を見るに敏というべきだろう。

記録によれば、大塚五郎吉は慶応3年(1867年)、横浜の有力な生糸売込み問屋である亀屋・原善三郎商店に17回にわたって合計736貫の生糸を出荷したとある。1貫目は3.75kgだから、合計2,760kgである。

八王子市場で生糸を販売する側だった五郎吉は、横浜開港とともに、逆に生糸を購入して横浜に運んで販売するという立場に変わっている。こうした臨機応変な変わり身の早さこそ、鑓水商人を一大勢力にした要因かもしれない。

写真は明治11年に再建された鑓水に唯一残る小泉家の主屋。木造平屋建てで、田の字型四間取りの、当時の典型的な民家。敷地内に、納屋、たい肥小屋、稲荷社などがある。

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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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